はいさい、かみざとです!
僕は、アラサーの右も左もわからない状態からプログラミングを始め、3年かけてフリーランスエンジニアになりました。
今はIT企業の社長として活動し、プログラミングスクールやカフェを立ち上げたりして、毎日超絶楽しく暮らしています。(自由な働き方本当に最高)
「アラサーからでも自由な生活を実現できる」
それを証明できたことが僕の誇りです。
と、最初にこのような経歴を見せると
「特別な才能があったからではないか?」
と思われそうですが、僕はエンジニアになるまでITにはとても疎い人間でした。
そんな僕でも、ITの力で180度人生を変えることができたのです。
- さらっと読める自己紹介
- 僕がフリーランスエンジニアになった理由
- エンジニアを目指し始めてから
- スクールで特待生に
- 半年でテスターに転職
- プログラミングスクールの講師に
- ベンチャー企業からのスカウト&プログラミングスクールの講師
- 超絶忙しい毎日を過ごす
- 沖縄へ帰郷
- 沖縄に帰ってきてから
- 今の状況
- 色々挑戦してわかった「本当にやりたいこと」
- 現在の事業
- 将来の夢
- まとめ
- かみざとのSNS
- 最後に
さらっと読める自己紹介
ぼくは、沖縄の名護という海がめちゃくちゃ綺麗な田舎で育ちました。
僕の自己紹介をシンプルに書くとこんな感じです!
・1987年4月10日生まれ
・小、中、高まで沖縄の名護市で育つ
・1日12時間学習で茨城大学へ進学
・大学1年の時に単位落としまくって卒業が危ぶまれる
・大学4年で茨城大学の大学院入試に落ちる
・人生をかけて横浜市立大学医学研究科の大学院入試を受験(1日13時間学習)
・なんとか医学研究科に合格するも教授との仲は最悪で辞めかける
・でも踏ん張って辞めず修士課程でなんとか大学院を卒業(二度と行くか)
・化学メーカーに研究職として入社
・父が自殺
・沖縄に帰ることを決心するが仕事がないためプログラミングを学ぶ
・エンジニア(SES)へ転職して1年働く
・ベンチャー企業&プログラミングスクールを掛け持ちして1年働く
・独立して沖縄へ帰郷
・起業して株式会社やんばるスパイク設立
・プログラミングスクール「やんばるCODE」設立
・カフェ「ヤンバルスペース」設立
・自社商品「やんばるチキン」開発、販売
という感じで、研究者なったかと思えばエンジニアに転職し、
独立してプログラミングスクール経営からカフェ経営、ネット商品開発・販売と色々やってます。
正直、自分が何屋さんかわかりません笑
僕がフリーランスエンジニアになった理由
ぼくがフリーランスエンジニアを目指すようになったのは、父の自殺がきっかけです。
そのことがあってから、親孝行についてよく考えるようになりました。
今は、残った母親と一緒にいる時間を少しでも長くできるよう、独立を目指しています。
父が亡くなってから現在に至るまでの経緯は以下の通り。重たい話が嫌いな人は飛ばしてね。
両親の離婚
最初のきっかけは両親の離婚。昔から、ぼくの両親はあまり仲が良くありませんでした。
それが原因で、2015年の3月に両親は離婚をしたのです。
「いつそうなってもおかしくない」
昔から覚悟はしていたつもりでした。でも、いざ離婚となるとやっぱりショックは大きかったです。
母から電話で離婚を告げられた時は、泣いてしまったのを覚えています。そして離婚後、両親は別々に暮らすようになりました。
しかし、父は母への思いを捨てられなかったようです。とても悲しいことですが、離婚から2ヶ月後に父はショックで自殺してしまいました。
父との最後の会話
亡くなる前日、ぼくは父と昼ご飯を食べました。父は、あまり元気がなく、ほとんど会話をしませんでした。
そのあと、ぼくは友達の結婚式があるため、ご飯を食べてからすぐに出かけたのです。その時、父はぼくに声をかけました。
「今日は帰ってくるのか?」
ぼくは、こう返しました。
「今日は遅くなるから、母さんの家に泊まる」
そうすると、父は寂しそうにこう言いました。
「帰ってきたらいいのに、、、、」
それでもぼくは、母の家に荷物を置いてあったので、その日は父の家には帰りませんでした。
そして、それが父との最後の会話になったのです。
父の亡くなった日
翌日の夜、父の様子を見に行こうと家をたずねました。時間は22:00です。
家に着くと、電気がついていなくて真っ暗でした。その日、仕事は休みで父は家にいるはずなのに。
「あれ?」
と思いながらも、ぼくは家の庭に車を止めました。
そうすると、車のライトに照らされて暗闇の中から父の姿が見えたのです。
父は、自殺していました。それから、父を横にしました。「おい」と声をかけました。
でも、返事はありませんでした。父は、すでに固くなっていました。
もう助からないことを悟り、ぼくは救急車ではなく警察を呼びました。
そうすると、警察の方からは「念のため救急車も呼ぶように」と言われました。
その後、消防署にも電話をし、救急車を呼ぶことになりました。
電話している間、ぼくが動揺しないように、向こう側から救急隊の人がずっと話しかけてくれたのを覚えています。
そのサポートが無かったら、もしかしたらパニックを起こしていたかもしれません。
電話に出てくださった救急隊の方からは、人工呼吸と心臓マッサージをするように指示されました。
「もう助からない」
そう思いながらも、ぼくは救急隊の方の指示通りに行動しました。
それから5分ほどして、消防署の方が家につき、その場で応急処置が行われました。
ですが、やはり助かることはありませんでした。
ぼくの目の前で、父は「死亡」と判断されたのです。
父が亡くなってから
それからあとは、死ぬほど泣きました。一生分泣いたんじゃないかと思うくらいに泣きました。
火葬場でボタンを押すときは、声をあげて泣きました。
「ごめんね」
それしか言葉が出ませんでした。父が亡くなってから、ぼくは改めて自分の人生を見直しました。
「残った母だけでも大切にしよう」
それが、ぼくの出した答えでした。
そのため、母といる時間を少しでも長くできるよう、夢だった研究職を辞め、地元の沖縄に帰ることにしたのです。
そう決心してからは、色んな働き方を模索しました。その中で、ぼくはプログラミングとブログに出合ったのです。
「このスキルを活用すればもっと自由な時間が増える。もっと母といる時間を作ることができる」と。
もちろん、地元に帰ることが父への償いになるとは全く思いません。
それでも、残った母を大切を大切にすることが重要だと考えました。それが、今のぼくが思いつく最高の親孝行だから。
そのため、僕は5年間続けた研究職を辞め、フリープログラマーとして独立を目指し、プログラミングをするようになったのです。
エンジニアを目指し始めてから
「エンジニアになる!」と意気込んだは良いものの、右も左もわからない状態からスキルを身につけるのは、正直かなり大変でした。
まず、プログラミング言語ではないHTMLやCSSの勉強だけでも四苦八苦。
「デザインをするだけでもこんなに大変なのか」と感じたのを覚えています。
HTML/CSSの学習開始から1ヶ月経ち、サーバーサイドの言語であるRubyを学び始めました。
こちらも、最初はifやfor、while、caseの使い方を覚えるだけで精一杯。
プログラマーってこんなに高度なことやってるんだって感動したのを覚えています。
世の中のプログラマーマジですごいと思いました。
そして、Ruby on Railsの学習を始めようと思ったのですが、その前にまず立ちはだかったのが環境構築という壁。
何もわからない状態でそこそこ専門性の高い知識が要求されるので、そこで挫折する初心者は結構多いと思います。
僕は自分でできる自信がなかったので、その壁はスクールに通うことで回避しました。
スクールで特待生に
Ruby on Railsを独学する自信がなくてプログラミングスクールに通ったわけですが、そこではかなり勉強頑張りました。
なぜなら、受講期間が1ヶ月と限られていたから。
平日は4時間以上、休日は6時間以上。これが、スクールに通っていた時の僕の学習時間です。
勉強しているときは訳のわからないことが多く混乱するときもありましたが、とにかく前進することを意識しました。
わからなくても前進。ひたすら前進。日々前進あるのみです。
そんな学習スタイルを繰り返していくうち、だんだんとプログラミングにも慣れ、理解力も上がってきました。
オリジナルサービスの開発まではいけなかったけど、なんとかカリキュラムは一通り理解できるように。
そして、スクールを卒業してから1ヶ月が経ち、1通のメールがきたのです。
「なんだ?」と思って内容を確認したら、「あなたがスクールの特待生に選ばれました」とのことでした。
ただがむしゃらに勉強し続けた結果、その進捗具合が認められ、特待生に選ばれたのです。
この瞬間、一生懸命勉強して本当によかったと思いました。
半年でテスターに転職
スクールを卒業してから半年が経ち、そろそろ現場に入って本格的にプログラマーとして働きたいと思って転職活動をしました。
その結果、わずか2週間で転職に成功。
アラサー未経験からの挑戦とあってかなり身構えていたら、割とあっさり転職できました。笑
ただ、転職した会社はSESで
「テスターを2~3年やらないとエンジニアにはなれない」
というよくわからない理論を持ち出す会社でした。
今時、テスターをやらなくても未経験からすぐにコードを書かせてもらっている駆け出しエンジニアは山ほどいます。
「この会社は時代遅れ、もしくは良い案件を全く抱えていない」
そう感じ、1年で辞めました。
もちろんテスターは良い経験だったのですが、長居は無用。
さっさと次のステップに進んだ方がいいです。
プログラミングスクールの講師に
SESを辞めた後、僕はプログラミングスクールの講師になりました。
そこではJavaをみっちり1ヶ月学び、再度プログラミングの楽しさにのめり込みます。(Java難しかった〜笑)
あの頃は、本当に朝から晩までJavaのことを考えてました。自分の実力が爆発的に伸びたのもこの時期。
この機会には本当に感謝です。
そしてJavaの研修が終了した後、さっそく現場でプログラミングを教えるようになりました。
Javaの基礎文法だけでなく、フレームワークなども教えるようになり、それからだんだんと他の言語へ、、、、。
みるみるうちに出来ることが増えました。以下、学んだこと一覧。
- Ruby/Ruby on Rails
- Java/Spring
- PHP
- JavaScript
- HTML/CSS
- MySQL
- Oracle
- Swift/Xcode
- Excel VBA
- VB/VBDB
- C
一生懸命学んでたら、いつの間にか実力が認められたのか、Ruby/Railsの講座開発も任せてもらえるまでになりました。
この経験が今のスクール運営にも活きています。
ベンチャー企業からのスカウト&プログラミングスクールの講師
プログラミングスクールの講師になってから1ヶ月後、ありがたいことにベンチャー企業からスカウトをいただくことができました。
そして、そのことがきっかけでパラレルワーカーとして働くように。
まさか自分が2つの会社を掛け持ちすることになるとは笑
この頃は、サーバーサイドはもちろん、フロントエンド、AWSでのサーバー管理、SEOまで、様々な業務を任せていただけました。
ここまで色んなことをさせて頂ける職場はそうそうないので、この環境に本当に感謝。
まだまだわからないことは多いのですが、自分なりに楽しみながらプログラマー生活を送ることができています。
今振り返っても、プログラマーに転職した自分の判断は間違ってなかったですね。
超絶忙しい毎日を過ごす
ベンチャー企業でエンジニアとして働き、その傍らプログラミングスクールの講師も掛け持ちしていたわけですが、正直死ぬほど忙しかったです。
その3~4ヶ月間はほとんど休みなしで働きまくりました。
50連勤もあったりして、今思い出しても死ねるwww
このときは精神的にも体力的にもかなり限界で、ただひたすら「修行期間」として耐えていました。
ただ、こんな時でも体調を崩さない自分の頑丈さには正直驚きましたね。
体は資本。経営者としての素質あり。(自分で言うタイプ)
という感じでガンガン働いていたわけですが、プライベートの時間をフル活用しても稼げた額は70万。
自分の限界を感じて「これは仕事効率化しないとやばいわ」と考えたわけです。
ただがむしゃらに働くだけではダメ。
新しい物事に挑戦できる余裕を産み出すことが大切だと学びました。
沖縄へ帰郷
ベンチャー企業に勤めて1年が経ったころ、個人でやっていたビジネスが安定して月30満を超えるようになりました。
そのため、「そろそろ沖縄に帰ろうか」という決心がつき会社を辞めることに。
理由は、自分のビジネスの収入が20万を安定して超えるようになったのと、忙しい生活をそろそろ終わりにしたいと思ったから。
この状態なら、沖縄に帰っても確実に生きていけると判断したため、14年間住んだ関東を離れ、沖縄に帰ることにしました。
車で埼玉から沖縄までドライブしながら移動したのがいい思い出です。
埼玉、静岡、名古屋、大阪、広島、福岡、長崎、鹿児島、沖縄と、9泊10日の旅をしました。
色んな場所を回ることができて本当に楽しかったです。
沖縄に帰ってきてから
沖縄に帰ってきてからは、本当にのんびりとした日々を過ごしています。
もちろん、ただ遊ぶだけでなく、ビジネスもとことん楽しんでいます。
僕はこれまでオンラインビジネスにばかり力を入れていたのですが、
沖縄に帰ってきてからはオフラインにも挑戦するようになりました。
その挑戦の一つが「やんばるCODE」というプログラミングスクールです。
こちらは沖縄の宜野湾(那覇空港から車で20分)に作りました。
初めて実店舗を構えたビジネスをすると言うこともあり、最初はうまく行くかどうかすごく不安だったのを覚えています。
しかし、いざスタートしてみるとすぐに生徒さんが埋まり、受け入れをキャンセルしなければいけない状態になりました。
こちらはとても嬉しい誤算です。(早く2店舗目出さねば)
そして次のビジネスとして、沖縄の名護市で「ヤンバルスペース」というカフェを立ち上げます。
こちらもありがたいことに、僕のTwitterやInstagram、TikTokからお客様がきてくださっています。
また、こちらは「沖縄のビジネス拠点を作りたい」という思い出立ち上げたのですが、
ありがたいことに連日ビジネスの相談が来たり、経営者やフリーランスを集めてワインパーティーも開催できるようになりました。
着実にビジネス拠点として認知されつつあります。
今の状況
父が亡くなったことがきっかけでプログラミングを学び、現在は独立して沖縄で好き放題やりながら生きています。
本当最高の働き方。
現在のビジネスに関しても、起点となっているのはエンジニアとしての経験。
ITリテラシーが高いだけでめちゃめちゃチートですよ、ほんと。
今後は沖縄に特化した食品や伝統工芸品などを販売し、ネット販売に力を入れ、もっともっと沖縄の良さを世界へ発信しようと考えています。
色々挑戦してわかった「本当にやりたいこと」
僕は自分でビジネスを始めてから、
1日12時間以上の重労働をしたり、
それとは逆に1日3時間以下ののんびりとした働き方をしたり、
色々とやってきました。
その中で、月商が1ヶ月5万の時もあれば400万の時もあり、低賃金からそこそこの高収入までを経験しています。
そんな経験の中で自分は本当は何がしたいのか?をよく考えてきました。
その結果、僕は自分で自由に使える時間もお金もそこそこでいいということに気づいたわけです。
じゃあ何を追い求めているのか?
自問自答をして気づいたことがあります。
それは、「僕はただひたすら楽しいビジネスを追い求めていきたい」ということです。
楽しければ人生幸せ。
だから、死ぬまでずっとビジネスを楽しみたい。
超忙しい時間を過ごしたり、超暇な時間を過ごしたり、お金がない時もあればお金が余っている時もある。
色んな状態を経験して最終的に残ったのがこの答えでした。
僕はビジネスが楽しければ幸せです。
なので、一生をかけてビジネスを楽しんでいきます。
現在の事業
ぼくが現在やっているビジネスはざっとこんな感じです!
やんばるCODE
こちらは沖縄で運営しているプログラミングスクールです。一般公開する前に受講生が埋まるくらい人気笑
ここから沖縄の経済をどんどん盛り上げる人材を排出していきます!
オンラインプログラミングスクール
ITスキルを身につけ、どこにいても自由に働ける人材を育てるため、「やんばるCODEオンライン」を運営中。
こちらでは、プログラミングに限らず、動画編集、マーケティング、デザインなど、様々なITスキルを学べるようにしています。
現在メンバーは500名。現役エンジニアも多数輩出しています。
プログラミングや動画編集に関する案件も紹介中。
ヤンバルスペース
沖縄の名護市にITでビジネスを生み出すための拠点を作るためヤンバルスペースというカフェをオープンさせました。
こちらはただのカフェではなく、プログラミングをはじめとしたIT関連のスキルやビジネスに関して学ぶことができるカフェです。
僕はよくここでビジネスやプログラミング学習の相談を受けたりしています。
やんばるエキスパート
こちらは、他のスクールではなかなか経験できない内容のカリキュラムを用意しています。エンジニア転職したい方はぜひチェックしてみてください。
RubyとPHP両方あります!
フリーランスエンジニア育成講座
こちらはガチ中のガチ講座。単価120万円のフリーランスエンジニアが直接教える講座。
最高の学習環境が手に入ります。ただし、受け入れ人数は少ないのでご注意ください。
プログラミング教材執筆
RubyやRailsの教材執筆にも力を入れていて、プログラミング学習教材プラットフォームである「Techpit」さんでも先日オリジナル教材をリリースしました
教材執筆はかなり楽しいので、今後も定期的にリリースしていこうと考えています
将来の夢
僕が将来やりたいのは、沖縄の働き方を変えることです。なぜなら、沖縄には仕事の選択肢がほとんどないから。
僕が親孝行のために沖縄に帰ろうと思ったときも、びっくりするほどやりたいと思える仕事が見つかりませんでした。
そのため、場所を選ばず好きな仕事ができるプログラミングに目をつけたんです。
プログラミングスキルがあれば、好きな業界で好きな仕事ができる。働く場所も、時間も、労働条件も、全て自分で選べる。
もちろん、それが可能になるかどうかは本人次第でしょう。でも、可能性は0ではないんです。それだけで有難い。
きっと、田舎に戻りたくても仕事がなくて戻れないという人は多いんじゃないでしょうか?
そういう人たちのためにも、僕は沖縄でのリモート勤務を必ず実現させたいと考えています。
「仕事は楽しいもの」
そう思える社会を地元から作り上げていきます。
そのためにまずは会社を立ち上げ、リモートでも十分働ける環境を作る。
僕と関わる人全てが好きな場所で、好きな時に、好きなだけ働いて生活できるようになったら素敵だなと思っています。
まとめ
以上がぼくのプロフィールです。
アラサー未経験からエンジニアに転職し、無事に独立することができましたが、僕はまだ満足していません。
もっともっと力をつけ、沖縄の労働環境を変えていきます。
南国で楽しく働ける人を増やしていきます。
その過程はこれからもYouTubeやTwitterなどで発信していくので、ぜひ定期的にチェックしてみてください。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
かみざとのSNS
最後に
気になった講座があったらぜひチェックしてみてください!